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1998年7月号
written by 来素果森

高名な方々の優雅な寝言(1)


 大朝日新聞と当誌の見解がくい違うのはやむを得ないのかも知れないが(笑)、6月15日夕刊の”渡部直己のスポーツ批評宣言”における「巨人はこのまま85年阪神と化せ」ほど当コラムと見解が対照的であるものは珍しいだろう。渡部氏によると今年の巨人の戦いぶりは特筆に値するものであり、チーム一の打率を誇る清水を二番に据えている監督長嶋の選択は、かつて、二番・山本和範という晴れやかな打順思想を示したダイエーの監督根本の、あのたぐいまれな創意に通ずる(原文ママ)ものであるそうだ。さすが高名な文芸批評家ともなると全くユニークな見解をお持ちで、筆者の考えとしてはあれは川相が故障と老化によるおとろえで出番が少なくなり、かわりに元木が出場する事が多くなったが彼は周知の通りバントなどの小細工がきわめてヘタで二番には適さず、さりとて得意の銭ゲバで集めてきたほかの打者は全て四番タイプのために仕方なく清水が二番に置かれていると思うがどうだろうか。たぶん、セ・パ両リーグの十二球団の名前が全部言えるランクより上の野球通の方々には筆者の見解のほうが支持されると思うのだが。数試合ではあるが、広沢まで二番に置かれた事もあった。これも長嶋監督のたぐいまれなる創意なのだろうか。

 まあそれでもここまではまだよい。いかにトンチンカンな認識や解釈であろうと主観としてそう評価したんだ、と言うのなら苦笑しつつも認めざるを得ないからである。一ヤンキーが駅のトイレに入って紙がなかったので怒って描いた落書きを『これはピカソのゲルニカに通じるモノがある』と評価する事が自由である事と同じように。ただ、いずれにしても説得力がない事には変わりがないだろう。監督としての長嶋とたぐいまれなる創意というのは比喩を思いつかない位縁遠いものだと思う。

 が、問題はそれ以降である。渡部氏はこのあと今年の巨人を85年の阪神に模する、あるいは”巨人は、敢然としてこのまま、八五年阪神と化さねばならない”という信念のための様々な論証を繰りひろげるのだが、信じ難い事にそれらがほとんど主観の相違では済まされないデタラメなのである。これは苦笑して…という訳にはいかない。やや長いが引用してもると

 (前略)すなわち一、二ゲーム差の混戦を演じている現在の四強中(横浜・中日・巨人・広島=筆者注)、このチームのみが、安定した抑え投手をもたぬ点がミソである。安定した「セーブ」の稼げぬ点に巨人の前途を危ぶむ声もしきりだが、野球を知らぬ連中のたわごとにすぎない。不安定だからこそ、これほど打ちまくるのである。うそだと思うなら、一九八五年阪神を想起するがよい。戦後最高度に魅力的な優勝チームであったあの阪神において、先発も中継ぎも安定せず、中西や山本和も、絶対的な「セーブ」投手というよりは、なんとなく「セーブ」といった趣で試合を締めくくってばかりいたではないか。九〇年代長嶋巨人にしてからが、過去二度の優秀リリーバーは、信用のおけぬ石毛とマリオであった。抑えのはずの彼らがあっさり点を取られ、取り返して勝つと思ったゲームを我々は何度目にしたことか。そして、そうしたゲームの数々が、どれほど刺激的なものであったか(後略)。

 筆者はこの文章を読んで、何か情けない思いがした。同じ渡部でもたとえば昇一氏のように、言論史上希代のデタラメ男ならばいざ知らず、直己氏はまともな方であるはずである。いずれあらためてとり上げるつもりだが、草野進・蓮實重彦氏らとの著作には面白いものが多い。それが長嶋コンプレックスの呪縛からは決して逃れられないものでしかなくても。しかしながら、ここまで平然とデタラメを並べられるのはどうした事だろう。普通にプロ野球をウォッチングしている人からみて開いた口がふさがるまい。たとえば四強うんぬんの話にしても、佐々木の横浜や宣の中日はいざ知らず、広島の安定した抑え投手というのはいったい誰のことなのか。先月のこの欄でも書いたことだが、今年の広島は佐々岡がピリッとせず抑えの失敗をくり返し、新人の小林幹が中継ぎと抑えを兼任させられてアップアップの状態である。こんな事は誰でも知っていると思うのだが。結局、巨人の特殊性を強調しようとするあまりこのような現実をねじ曲げた文章が出てくるのだろう。また、渡部氏のまちがいとは言いきれないものの、一応付記しておきたいのは”安定した抑え投手をもたぬ”という表現。正式には”安定した抑え投手がいない”と言うべきだろう。ここで大きくうなずいてくれた向きには以下はたぶん蛇足となろうが、チームとして持っていないわけではなく、候補はたくさんいるのだがチームとして育てられない、又はつぶしているので、存在していないだけである。今年も日ハムから金石、オリックスから野村とストッパー候補を補強してシーズンにのぞんだが、いつもの頭の悪いベンチワークのために共に能力を全く活かせていない。二年ぐらい前にこの欄で書いた事だが金石は勝っている試合の最終回の頭から投げさせる事で一番能力を発揮できるタイプだし、野村はオリックス時代に仰木監督としばしば衝突したように、納得いく出番に起用されると能力を発揮するいわゆる気で投げるタイプ。ところが実際の二人の使われ方は、金石はシーンのごく当初こそよかったものの次第にリードされた試合のロングリリーフをさせられるようになりあげくの果て故障して下へ落とされてしまうし、仰木の比ではない長嶋のメチャクチャ起用に全くついていけない野村はリリーフの失敗をくり返し、やくみつるに(団野村にひっかけて)「試合の後半あらわれて、ホームランを打たれて試合をゴチャつかせる(被)弾・野村」とネタにされる始末。ここらへんは象徴的

 以下の文章においても歴史的事実と照らし合わせるとデタラメのオンパレードなのだがスペースの都合上それは次号にゆずるとして、この欄の4月号でも書いたように、そしてそれは渡部氏の見解とも一致するように、85年の阪神の優勝はそれが阪神にとって二十一年ぶりの優勝であった事などとは全く関係なく、奇跡のように美しい優勝であった。しかしそれはあくまで奇跡であり、人間ワザでそうそう再現できる事ではないし、もし仮にカネでそれに近いものをつくり出したとしてもそれはただのレプリカ以下の存在でしかない。能力的にムリ、という点は差し置いて考え、仮に今年の巨人が打ちまくって優勝したとしても喜ぶのは救い難く長嶋コンプレックスに取り憑かれた人と思考活動に不向きな一部の巨人ファンだけで、それ以外の人には鼻で笑われてシラけるだけだという事になぜこの文芸評論家氏は気付かずにいるのだろう。そのメンタリティはおそらく球場で試合を観るより旗を振るほうが大事である人と大差ないのではと思われても仕方ないだろうと思う。            (この項つづく)

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