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1999年4月号
written by 来素果森

スパイ事件についてその(3)


 開幕から二週間ほどたった日、ぼくは阪神の江本として、公式戦に初登板した。相手チームの名は秘すが、チェンジでベンチに引き上げたとき、ぼくは吉田さんとつぎのような短い問答をしたことがある。

「監督、外野が危ないですよ」
「危ないって、何が」
「みてるんですよ。サインを」
「まさか、おまえ!」
「ほんとうですよ」
「そんなもん気のせいや」

ぼくは──こらあかん、認識のずれもここまでくればそうとうなもんや──と、またびっくり仰天したのである。その後も、何度か同じようなやりとりをしたが、吉田さんは結局耳を貸してくれなかった。その年、その相手チームは優勝した。ところが吉田さんは、なぜこのチームが優勝したかまでは思いをめぐらさず、選手がよく打ちよく守ったから勝ったまでだ、と思い込んでいるようだった。このような感覚、監督としてはどうなのか。ぼくは認め難い(中略)プロ野球選手は、普通のサラリーマンとはちがう。選手一人ひとりが事業主で、球団と請負契約を結んでいるようなものだと思う。とすれば、球団側と選手がお互いの利益追求のために話し合い、いいとこは取り入れ、悪いことは排除していくような姿勢がなければならない。吉田さんにそれがあったか。残念ながらなかった、とぼくは思う。これでは、事業主のひとりであるぼくがいやになるのは当然だろう
(後略)。

 これはいまから17年前、82年に出版された、現参議院議員・江本孟紀の「おれ、紆球曲球」という本からの引用である。本当の意味でのスパイ行為、というモノはこんな昔から行なわれていたという事、決してそれに対して声高に非難をしているのではなく、その行為に対しての対応を怠るほうにむしろ問題がある、と選手は考えている事などが明確にうかがえる文章である。先月の終わりに”プロフェッショナリズムとアマチュアリズムの甘美な誤解”と書いたが、どちらが正しくどちらが良いのかは別として、現場の考え方としてはこうである、という事は知っておいたほうがいいだろう。もう20年近く昔になるが、ボクシング界で某有力ジムの会長が世界タイトルマッチで相手の陣営に毒入りオレンジを差し入れ(もちろん死ぬようなものではなく、多少体調に影響が出る位のもの)したことがバレて大騒ぎになった事があったが、この事件についてコメントを求められた別の世界チャンピオンは「そんな行為は当然の事で、敵陣営から差し入れられたものに口をつけた選手がいるのだとすればそれはよっぽどの馬鹿。私は、特に相手の国で戦う時には水や食糧は相手からの差し入れはおろか、宿泊しているホテルのものすら口にしない。全て自分か、又はスタッフが外で入手してきたものしか口をつけない」と事もなげに答えた。ホテルのものでは敵に買収された者がいるかもしれない、という事だが、多分これが真の意味でのプロフェッショナリズムというものだろう。誤解されないようにつけ加えておくが、筆者は、”勝つために何をやってもいいし、それをするのがプロだ”と言っているのではない。ただ敵の様々な行為に対してどう対応するか、は間違いなくプロと名の付く者なら行なわねばならないとは思う。その意味で江本氏とは同意見である。

 また、ついでながら触れておくと、江本氏が南海から阪神へ移籍したのは昭和五十一年。”阪神の江本”がセ・リーグで最初に対戦したチームはどこか、を調べるのはやや困難でも、この年に優勝したチームはどこか、を調べるのは簡単だ。そう、長嶋巨人V1の年である。週刊文○や○潮の電車の中吊り広告風に言えば『黒いチャンピオンフラッグ 長嶋巨人V1は、のぞきとスパイ行為によって成し遂げられたものだった』とでもなるだのだろうが(事実この年の優勝の巨人と2位の阪神のゲーム差はわずか2で、阪神側が適切な手段を講じていたら、おそらく違う結果が出ていただろう)、監督としての長嶋、及び巨人に対してかなり批判的な見解を持つ筆者にしても、この事で長嶋監督を責めようとは、全く思わない。そんな行為を野放しにしたヨッさんのほうに問題があるのである。少なくとも現役のプロ野球選手のほとんども同意見だろう。もちろん、当の江本氏自身も全く長嶋監督を非難していない。ここ3か月筆者が述べてきた事は、メジャーリーグも含めたプロ野球界では常識の事である。逆に言うとプロ野球とはそういう世界なのだ。最近では下火になったがバッテリー、チームによっては内野手までがグラブにつけた乱数表を見ながらサイン交換していたのはのぞかれる事を前提としていたからだし、投手と捕手がグラブやミットで口をかくしながら打ち合わせをしているのは、決してお上品を気取っているのではない。敵のベンチの読唇術を警戒しているのだ。

 以上のような現実を知っていただければ、今回の騒動に対するマスコミの報道、及び識者と言われている方々のコメントのほとんど(全部、ではない)がいかに的外れで、こっけいなものだったかがわかっていただけただろう。ファンの信頼や夢を裏切ったなどというのは”女性アイドルはみんな処女”と信じている人と同じ理性・感性の持ち主の意見だろうし、ましてや一般紙の社会面でない事も明らかだ。では何故こんな大騒ぎになったかだが、マスコミや識者のレベルの低さが原因である、というのは実は半分しか正解ではない。スポーツ紙の記者にしても、よっぽど若くて不勉強なペーペーならいざ知らず、少なくともある程度以上のキャリアのあるデスククラスならばこんな事はみーんな知ってる事だから、無知ゆえのミスリードではない。だからこそ根は深いのだが、端的に言ってしまうと(1)ネタ枯れのシーズンオフにおいしい話題、という事でスポーツ紙がとびつき(2)あまりプロ野球に詳しくない識者や一般人が大騒ぎし社会問題になり(3)一般紙も取り上げるようになって、まるでプロ野球界の存亡がかかった大問題になってしまった…という事で、正解の残りの半分は(雑誌や新聞を売る為の)情報操作が成功しました、という事なのだ。ここまで書いてしまうと異論のある人や反発する人もいるだろう。たしかに、多少強調した言い方ではある。各社が悪意の計算づくで行なった事ではない事もまた確かだ。ただ、最初のスクープに引きずられて報道合戦がエスカレートし、結果としてそういう絵が出来あがった事は事実である。これが要点の<二>だ。

<二>圧倒的に大した問題でない今回の問題がこんな大騒ぎになったのは、主にマスコミが引き起こし、自らも巻き込まれた集団ヒステリーのせいである。

 この構図は実は今回だけでの構図ではない、という事まで踏み込むとあと5回続くことになってしまうのでそこまでは書ききれないが、それにしても情けないのは一部の読者の方々である。その点で書きもらした事に少し触れてから次号では”当たる”と巷で評判のペナント予想に行く事にしよう。                 (この項続く)

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