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1998年8月号
written by 来素果森

高名な方々の優雅な寝言(2)


 ペナントレース前半戦が終了した時点では、横浜と日ハムがかなり優位に立っている。が、両チームとも優勝する時のヤクルトや一時のオリックスのような絶対的な強さは感じられない。何よりもそれを感じているのは権藤・上田両監督だろう。いままでは歯車がうまくかみ合っていたが、ひとつずれると…という危機感は常に感じていると思う。これからはその”ずれた時”にどうチームを立て直すか、という危機管理が両監督の腕の見せどころになる。特に日ハムは馬力のある近鉄が上昇ムードに乗った時、それをいかにかわすかがポイントになるだろう。真のエースもストッパーも特に見当たらないチームだけに、平時にいくつ貯金が出来るかが勝負である。8月終了時点で4〜5ゲーム差はつけておきたいところだ。

 さて、先月の続きである。前回は高名な文芸評論家渡部直己氏の「四強(横浜・中日・巨人・広島〜当時〜)のうち巨人のみが安定した抑え投手をもたず、不安定だからこそ打ちまくる」という渡部氏の説に対し、その説の誤りを論じた。つけ加えるならば、佐々木がいる横浜のマシンガン打線はより打ちまくっている事も述べておこう。

 で、次である。「(85年の阪神について)戦後最高度に魅力的な優勝チームであったあの阪神において、先発も中継ぎも安定せず、中西や山本和も、絶対的なセーブ投手というよりは、なんとなくセーブといった趣で試合を締めくくってばかりいたではないか」というのが85年の阪神の投手陣に対する渡部氏の認識のようである。筆者は最初この部分を読んだ時に渡部氏は84年までアゼルバイジャンかどこかにお住まいで、85年にはじめて日本のプロ野球をお知りになられたのかと思った。ここ4〜5年のプロ野球しか知らない人にはよくわからないかもしれないが、少なくともここ20年の日本のプロ野球を知っている人は全て口をアングリだろう。この年(85年)にプロ入り2年めで大ブレイクしセーブ王を獲った中西はともかく、当時の山本和では現在で言えば横浜の佐々木クラスの絶対的なセーブ投手であったと言っても過言でないからだ。元々は先発投手であったが、82年に本格的にストッパーに転向してからは82年に40セーブポイント、優勝の前年の84年にも34セーブポイントで両年ともセーブ王になり、もうこの85年の段階では”山本和はリーグを代表する抑え投手だ”と言うのは当時のプロ野球ファンの間では共通認識であったのだ。ピッチングスタイルもストレートとフォークを主武器に打者にどんどん向かって行く攻撃的投球が身上で、おそらく彼のピッチングを知るほとんど全ての者は渡部氏の文章を読んで「これはもしかしたらカバティの事を書いたのか?」と思ったのではないか。その位特異な見解である。

 ちなみに山本和の抑え投手としての通算成績は190セーブポイントで引退時は江夏に次いで二位、現在では五位である。この山本和が絶対的なセーブ投手でないのなら、98年現在通算ホームラン数が歴代五位の落合(ちなみに一〜四位は王・野村・門田・山本浩二)はいわゆるホームランバッターではないのだろう。愚かしい事だ。

 中継ぎ、においても同様の事が言える。85年の阪神には、その2年前に69試合、前年には77試合と2年続けて両リーグ通じての最多登板をした福間がいた。しかも、83年には中継ぎ投手でありながら規定投球回数に達し、防御率一位のタイトルまで獲っている。もちろん85年も58試合に投げて8勝5敗1セーブと優勝に大きく貢献している。中継ぎが安定しない、どころか中盤以降1点でもリードしていれば福間(左)--中西(右)--山本和(左)という勝利の方程式(笑)が組めたのが阪神の強みだったのだ。渡部氏はいったい何を見ていたのか。年少の読者のためにもう少し詳しく説明しておくと、この年の阪神のリリーフ陣の構成は95年のロッテに似ていた、と言うとわかり易いかもしれない。この年のロッテは成本(右)、河本(左)という同等の力を持つ2枚のストッパーに、絶好調の中継ぎ、吉田(右)がいた。違いは、中継ぎが右か左かだけで、それによってストッパーが出てくる順番が違うのだが、それ以外の部分では山本和のアキレス腱が切れて戦線離脱し、福間が出てくるタイミングが少し遅くなるようになるシーズン中盤まではほぼ95年のロッテのような投手起用がなされていた。ものの順序でいくと、ロッテが阪神の投手起用法を手本にした訳だが。

 ともあれ、以上の説明で渡部氏の説がいかにデタラメであるかはもうおわかりになっていただけたと思う。85年の阪神は、どこよりも安定した抑え投手(中継ぎ含む)を持ち、先発陣はたしかに弱かったものの”ラッキーイニングに入るまでに一点でもリードしていれば勝てる”という目標をチーム全体が持って戦い、そして打ちまくって優勝したのだった。「不安定だからこそ…」などど言うのはそれこそ野球を知らぬ者のたわごとであろう。

 さらにつけ加えるならば、九〇年代の長嶋巨人の二度の優勝時、九四年と九六年のリリーバーについての渡部氏の記述も事実にてらし合わせるとおかしい。まず九四年に関して言えば、むしろ長嶋監督は徹底的に”安定”にこだわった。明けても暮れても橋本─石毛のワンパターンで、だからこそ勝利の方程式、なる言葉ができた。また、その戦法は大筋においては成功し、決して渡部氏が言うように「抑えのはずの彼らがあっさり点を取られ、取り返して勝つといったゲームを我々は何度目にしたことか」なんて事はない。そんな事は数字を見たら明らかである。もし、渡部氏の言うような試合展開が本当に多ければ、94年の石毛にはセーブでなく勝ち星が沢山つくはずである。具体的に言えば、ホームゲームでの9回、1点リードしたところで出て来てそのイニングを抑えると当然セーブがつく。ところが渡部氏の言うような展開、同点にまたは逆転されその裏(9回裏)に再び自軍が逆転した場合には勝ち星がつく。もちろん、同点の場面で出て来る場合もあるのだけれども、いずれにしても渡部氏の意見が正しいのならセーブとセーブポイント(セーブ+勝ち星)の差が大きいはずであるが現実はどうか。94年の石毛の成績を見るとセーブポイントは24(19セーブ+5勝9でリーグ二位である。もちろん、前述したように同点の場面から出て来る事もあるので、勝ち星が多い=本当は負けのところを打線に救われてる、訳ではないが、少なくとも石毛はセーブは多かったが勝ち星は多くなく(負けも4敗、と普通レベル)、ここでも渡部氏の認識は誤ってるのがわかる。94年に関しては、石毛は抑え投手の役─昨今の佐々木のような超人的活躍とくらべるならともかく─一応果たしているのである。防御率の3.14が示すように失点はやや多めであったが、追いつかれてはいない、というのがこの数字から証明されてると言えるだろう。来月もう一度この問題をとりあげる。        (この項つづく)

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