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1996年9月号
written by 来素果森

たとえ満員の観客の期待を裏切っても…強い気持ち、強い愛


 球場にいた人はもちろん、TV観戦をしていたほとんどの人が拍手を送ったに違いないイチローの登板。かなり以前からウワサとしては流れていたのだがなかなか実現せず、待ち望んでいた人は多いだろう。実は筆者も”見られるものならば見てみたい”と思っていた。ところが

 張本 (前略)今回のオールスターでイチローがピッチャーとしてマウンドに上がったでしょう。豊田さん、
    あれはたとえお祭りムードのゲームとはいえ、相手に失礼というのか、なめてませんか。
 豊田 そういうことやらせること自体が、最悪のことであると思う。
 張本 セ・リーグのバッターは打席に立つことはなかったんですよ。
 豊田 やっちゃいかんのです。
 張本 本当の野球人だったらはっきり「イヤです」とイチローも言わなきゃいかん(後略)。
 豊田 仰木監督は何をどう考えているのかねえ。
 週刊ベースボール8/5号より

 もっとも、この後豊田監督の発言はかなり後退するのだが、少なくとも当時激しく反発する気持ちがあったことがわかる。ここらへんも踏まえながら、今回の問題を考えてみたいと思う。

 言うまでもないが事だが、それぞれの監督が善意であった事は間違いない。プロ野球界全体の繁栄を考えている、という点でこの二人に勝る監督(に限らなくても)はいない。この点を踏まえた上で考えないと問題の本質から外れてしまう。言わば方法論のカテゴリーであり、イデオロギーの問題である。考えなしにではなく、仰木は当然反発が出る事を知りながら、また、野村は少なからず多くのファンががっかりする事を知りながら行動したのである。それは、前・西武監督の森が”つまらない野球”との謗(そし)りを一部から受けながらも勝つためにそれが必要、と考えたら選手にバントを命じ続けたのと全く同じ事である。この欄でも何回も書いたように(主に現在巨人というチームの監督をしている某氏にあてた事だが)、団体競技である野球のそのチームを率いる監督に信念(勝利のための方法論であり、イデオロギー)がなければ、そのチームが行なう野球は少なくともゼニのとれるシロモノではない。醜悪ですらある。反対に、監督が信念ある野球を見せてくれれば(森のように一部のその程度のレベルのファンからは拒否されたとしても)、必ずそれは人々の心に残る。また、それがプロの監督という事でもあるのだが今回の問題はプロ中のプロである二人が起こした事であり、単なる思いつきやそれに対する反発で起こった騒動ではない事を覚えておかないといけない。若(も)し仮に、オールスター戦の監督は一般から募集して抽選で素人がやるものだったとしたら、やはりイチローを投げさせただろう。が、結果が同じであっても、そこに至る深みはまるで違うのだという事は知っておいて欲しい。あえてくどくなるほど言っておく。プロ野球界全体を考えた上での「イチロー登板、高津代打」なのだ。これが先に善意、といった意味である。蛇足ながらつけ加えれば、この件に関してのナベツネのコメントは「ウチの松井をダシにしようとしやがって」だった。そう、あんたはそんなもんだ。

 オールスター戦のそもそもの起源は、アメリカの一少年の投書からはじまった事はよく知られている。アメリカンリーグとナショナルリーグのスター選手同士の対決が見たい、という素朴な願望からはじまった。今の日本で言うならば、伊良部と落合の対決を見てみたい、というようなものである。選ばれし者であるプロ野球界の中で更に選ばれた選手の対決──これがオールスター戦の意義であり、意味である。よく言われる事だが、日本にくらべてチーム数が格段に多く(一リーグ14チーム、両リーグで28チーム)、試合も一試合しかない大リーグのオールスターに選ばれる事の難しさと名誉は日本の比ではない。一つだけでなく、二つも三つもズバ抜けたところがあって初めて選ばれる超狭き門である。だから、大リーグの一軍半クラスの選手が来日して日本のオールスターに選ばれると、米国のそれを思い出してか信じられないほど緊張する。野村が評論家時代に、当時連続三冠王を獲って史上最高の助っ人と呼ばれセ・リーグの各投手がその対策に苦しんでいた阪神のバースが、それこそスローモーションのような空振りをくり返すのを見て自らの現役時代に強打で鳴らしたスペンサーのオールスター戦を思い出したと言っていた事がある。今年でいえば巨人のガルベスがそうだった。セのナンバーワン投手である斎藤をもしのぐ安定感を見せ、防御率や勝利数といったタイトルを狙える位置にある彼が、なんと5失点に2与四球。ペナントと違って、そんなに厳しい内角攻めを行う必要もないこの場面でのこの成績は、彼が緊張のあまり指先の感覚が狂っていた、以外に説明のつけようもあるまい。大リーグでは1勝も出来なかった彼にとって、オールスターは正(まさ)しく夢の球宴だったのだ。ペナントの試合よりはるかに重い比重を持つ。そして、それは野村の願いそのままでもある。緊張うんぬんはともかく、選ばれた選手が自分の持っている最高のものを出すために全力をつくす事が。少なくともちゃらんぽらんに考えていたら緊張などするわけはない。結果として客に自分の技をアピールする事は出来なくとも、これらの外国人選手に対して野村の目は温かかった。

 それとともに、野村は自らの経験も引き合いに出して球宴は選手を育てる場でもあるとも言う。彼がまだ若手のころ、当時ナンバーワン投手は文句なく金田だった。その金田と球宴ではじめて対決し、それこそ頭の上から曲がってきてストライクになるようなカーブにバットを振る事すら出来ずに見逃し(その球を初対決の時から思いきり振る事の出来た長嶋は何と素晴らしいことか、と褒めている)超一流を知り、後の打席で何とかヒットを打てた時に金田に「あの若い奴はなかなか見処があるのう」と言われたのがどんなに自信になったか、と語っている。いわゆる、超一流の選手のみが出来る「相手の選手を育てる」である。球宴はそういった場でもある、と野村は言っているのだ。野村の立場からの見方ばかり紹介してしまったが、これは仕方がない。選手時代自らが超一流で21回もオールスターに出、更に十年間の評論家時代に様々な発言をしている野村と、1回の出場しかなく、更に選手・コーチ・監督としてほとんど現場にいて評論家の経験は一年だけの仰木では発言量が違う。ただし、この経歴の違いが現在の二人の考え方の大きな違いになっているのは間違いない。具体的に言えば、投手としてのイチローは決して一流ではない。余芸ではあっても、プロの見せる本当の(伊良部の速球のような)芸ではない。また、松井にしても打ってもそれは当然と受け取られるし打てなかったら屈辱が残るだけである。現に、イチローを告げられた時の松井は完全に顔が引きつっていた。その後、野村に代打高津を告げられた時のほっとした笑顔は前述した週ベ8/5号にも大きく載っている。ここらへんが野村の試合後の談話「仰木も人の心を考えんと」にもつながるのだ。

 こうして考えてみると、どんなに仰木側に言い分があろうと野村側に軍配があがりそうである。冒頭にも書いたようにイチローの投手は小生も見たかったし、大部分のファンもそうだったろう。ただし、それがオールスターという場であったのはいかにもまずかった。ほかのなお場を考えるべきだったと思う。残念ながら今回は画竜点睛を欠いた、と評するしかないだろう。                    (この項終わり)

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